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店主がルーズであれば、時間になっても現れない場合もあるだろう。そんな覚悟と戯れていると、足音が近づいてきた。階下から上がってくる女性の姿。タイミング的にそうだろうという期待が膨らむ前に、彼女は待たせて申し訳ないという旨の言葉を吐きながら、リズミカルに私と同じ高さまで登ってくると、ガラガラガラと雷鳴のようなけたたましい音を響かせて、シャッターを追い払った。木枠のガラス扉の向こうで、テーブルや椅子が暗闇に沈んでいる。店主の声が奥からすると、目覚めたばかりの部屋に足を踏み入れた。
右手に鎮座するグランドピアノの上で、ベートーベンが睨んでいる。左手には白いカウンターが伸び、壁にはレコードジャケットを包むビニールが襞(ひだ)を形成し、呼吸をしている。オレンジ色のランプシェード。白くて丸いランプが線香花火のように吊るされている。グランドピアノを挟んで佇むカーキ色のスピーカー。それらから放たれる振動と、店主の言葉をキャッチしやすい位置で私は腰を下ろした。
沈黙を続けるスピーカーから出てくる音を待っていると、彼女は支度をしながら私にかけたい曲はあるかと尋ねた。嬉しさの中で、向かうことばかり意識し過ぎて、どんな曲を聞こうか想像していなかった自分を反省しながら、咄嗟にラヴェルのピアノ曲が出てきたのは、やはりこの暑さのせいだろう。外回りの仕事に疲れた会社員がマスター、アイスコーヒーと頼むように。
視線の先に手書きのラヴェルの文字が停まっている。これでいいですかと、彼女は指先で引っ掛け、ビニールと紙の衣服を脱がせた。露わになった赤く熱った肢体が、ターンテーブルに載せられた。針が触れる音がすると、ずっと黙っていた老人が昔の記憶を口にするように、スピーカーから音が溢れてきた。
スピーカーから溢れる音の連なりが、外気に温められた店内を駆け巡っている。氷水をかき混ぜるような、ピアノの音色。BGMより大きな音量は、そこで演奏している臨場感とも違う振動。針を交換したばかりのようだが、毎日稼働しているスピーカーの音は柔らかい。
私は、アイスクリーム&ホットコーヒーの組み合わせと、今日のケーキ&アイスコーヒーの組み合わせとを迷った挙句、後者にした。ホットは淹れるのに、アイスになった途端に「入れる」店があるが、取り越し苦労だった。ラヴェルのピアノの調べに浸かりながら味わう甘すぎないチョコレートケーキと、まろやかなアイスコーヒーのハーモニー。ギンガムチェックのスーツを羽織ったピアニストは、時折、同じ箇所を繰り返していた。
店は先代を引き継ぐ形で続けているが、先代とともに30年、その後は20年、一人で切り盛りしている。
この界隈は、同路線の他の駅のように高架化されていないことで、発展しすぎない良さがあると言う。現に、こうして何十年も続く喫茶店があるのがその証左だろう。レコード100枚で店を始め、馬鹿にされ、躍起になって集めた5000枚。中には、お金のない学生がレコードを持ってきて、素晴らしい曲だから買ってくれと頼んできたことも。メンテナンスも容易ではないが、毎日リクエストに応じて出し入れしていることが何よりの衛生管理。足繁く通う人々が、店を守っている。
音楽に夢中でコーヒーやデザートなんか意に介さなかったと、当時を振り返る。ほとんどの家庭にはここまでの装置はなかった。だから、音楽に対する熱量が尋常ではなかった。ラジオで耳にした曲をまた聴きたい。いい音で聴きたい。そんな人たちのための泉も、今では数えるほどになっている。
グラスが黒衣を脱いだ頃、私はメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」が聴きたくなった。あの美味しいフレーズを味わいたい。赤い肢体がターンテーブルを回転し始める。ジャケットが掲げられると、私は、あのフレーズを待っていた。1曲の中で2回。なのに、頭の中に深く刻み込まれる。クラブミュージックのように何度もリフレインさせて印象付けるのとは勝手が違う。高級食材を堪能すると、他に客がいないのをいいことに、もう一曲リクエストした。
「死の舞踏」と迷って、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」にした。動物たちが円を描くジャケットが掲げられた。久しぶりに耳に届く「謝肉祭」に、あぁこんなのもいたかと浸っていると、初老男性が立っていた。彼は、自分の位置が決まっているかのように、見渡すこともせず、まっしぐらに席に向かうと、コーヒーの他にリクエストを伝えているようだった。以降、数分おきに扉が開いては、ヒトが現れ、店のオブジェと化した。
第7曲「水族館」が始まると、体に異変が起きた。幼少期の記憶が浮かび上がってきた。奥多摩の鍾乳洞に出かけた帰り、父の運転する車の中はカセットテープが回っていた。
それは、ゲーム音楽をオーケストラで演奏するライブを録音したもので、観客の咳払いのタイミングを覚えるほど聞いていた。そのB面に収録されていた「動物の謝肉祭」が流れていた。後部座席から窓をぼんやり眺めていると、深い森の上で怪我をしたように赤が滲む空が、車内を回遊する「水族館」の音色とシンクロし、私の胸に深く刻まれた。続くシロフォンの撥(ばち)は小学生の鼓膜を叩いた。
あの夏の光景が、脳裏に映し出され、まるであの日に帰ったような気分になった。そして、フィナーレの曲の充足感が私の腰を持ち上げた。
店主に礼を言い、お釣りを財布にしまう頃、高らかなピアノの音色が響き始めた。さっき男性が伝えていたリクエストだろう。ジャケットが入れ替わると、もう少し聞いていたい気持ちを手土産にして、私はタラップを降りるように、光と暑熱のアスファルトに着地した。左足の甲に、小さな夕焼けが広がっていた。
次回は、9月11日(水)10時公開予定です。
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連載「東京23区物語」は、フィクションとノンフィクションが交錯する、23個のストーリー。ふかわりょうさんの紡ぐ、独特な世界をお楽しみください。記事一覧はこちら
ふかわりょう
1974年8月19日生まれ。神奈川県出身。
長髪に白いヘア・ターバンを装着し、「小心者克服講座」でブレイク。「あるあるネタ」の礎となる。現在はテレビ・ラジオのほか、執筆・DJなど、ただ、好きなことを続ける、50歳。
3月に小説『いいひと、辞めました』(新潮社)を刊行。その他の著書に『スマホを置いて旅をしたら』(大和書房)、『ひとりで生きると決めたんだ』(新潮社)、『世の中と足並みがそろわない』(新潮社)などがある。
レギュラー
TOKYO MX「バラいろダンディ」毎週月曜~木曜21:00~21:54
Fm yokohama「ロケットマンショー」毎週火曜日深夜2:30~3:00(Podcast毎週水曜7:00更新)
TBS「ひるおび!」第3・5水曜11:50~14:00
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